ペーター・キュルテン(デュッセルドルフの吸血鬼)
9歳の時、泳いでいる2人の友達を溺死させるという、初めての殺人を犯したと後に彼は言っている。1894年、家族と共にデュッセルドルフへ移住する。そこで窃盗や放火などで出入獄を繰り返す。青年期、彼は野犬捕縛者に雇われている。そこでキュルテンは、捕縛者に犬に対して自慰をさせることや、犬に対する拷問を教わる。彼の暴力的な傾向は、動物虐待から人に対する攻撃へと増幅変移していった。彼が30歳の1913年、ある商店に侵入し窃盗中、就寝中だった14歳の少女を強姦後に絞殺したのが、彼の立証される最初の犯罪である。この犯行時に、彼は自分のイニシャルの入ったハンカチを現場に残してしまったが、偶然そのイニシャルが被害者の父親と同じだったため、警察は父親を容疑者とみなして厳しく追及し、キュルテンは逮捕を免れている。別件で8年間刑務所にいたことから、第一次世界大戦中は彼の犯罪は中断している。1921年には刑務所を出所すると、テューリンゲン州アルテンブルク()に移り住み、ある女性と知り合い、熱烈に恋した末に結婚へとこぎつける。1925年、再びデュッセルドルフに戻る。地元の鋳型工場に就職し、実直な労働者、熱心な労働組合員として評価を固め、近隣でも礼儀正しい、物静かな紳士として振る舞っていた。
1929年2月8日、キュルテンは8歳の少女を強姦し殺害する。同年2月13日深夜、泥酔してキュルテンに絡んできた45歳の機械工を刺殺する。刺し傷は頭部を含め20箇所に及んだ。獣性を満たされたせいか、以後は誰も襲わなかったが、行きずりの女との荒々しいセックスに没頭していた。
やがてセックスでは満たされなくなり、半年後の8月に凶行を再開。8月21日には別々の場所で3人を刺し、23日には5歳と14歳の姉妹を殺害。翌24日にもある女性を襲撃し強姦した。気丈な彼女は「あんたと寝るぐらいなら死んだ方がマシよ!」と喰ってかかり、喜んだキュルテンは「じゃあ死ね」と数十回もナイフを振り下ろした。彼女は奇跡的に一命を取り留め、警察にキュルテンの人相を話しているが、不正確だったためか逮捕には至らなかった。同年9月には1件の強姦と殺人を、10月には2人の女性をハンマーで襲っている。この時点でデュッセルドルフは完全なパニック状態と化していた。キュルテンは食堂で働く妻を毎晩のように迎えに行き、「僕が迎えに来るまではここにいなさい」と注意している。同年11月7日、5歳の少女を殺害。彼女を埋めた場所の地図を購読していたドイツ共産党の機関紙編集部に送りつけたりもしている。犠牲者と方法が様々あることから、警察は2人以上の犯人がいるのではないかと仮定した。また90万以上もの人々が捜査線上に浮上した。
1929年11月の殺人がキュルテンの最後のそれとなる。とは言うものの1930年2月から3月にかけても多くの人がハンマーで襲われている。
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1930年5月のある日、キュルテンはデュッセルドルフ駅構内で、不良青年に絡まれていた少女に声をかけて助け出すと、自宅でお茶を飲まないかと誘いしばらく歓談した後、宿泊先のホテルへ送る途中のバイエルン州グレーフェンベルクの森で少女を強姦したが、この時キュルテンは「俺の家を覚えているか?」と問い、少女が覚えていないと返答したところ彼女を生かしたまま解放し立ち去った。故郷へ帰った少女は友人に一連の出来事を綴った手紙を友人に送ったが、宛名が間違っていたため配達できず郵便局でしばらく留め置かれた後規定に基づき開封された。郵便局からの通報を受けた警察は少女の居場所を突き止め、彼女にキュルテンの自宅を案内させた。
そのことを知ったキュルテンは、妻に今まで行った犯罪を告白し今まで妻を欺いたことに対する償いとして、警察へ通報して自分に掛けられた高額の褒賞金を受け取り老後の蓄えにするように促す。そして3月24日、妻の通報を受けた警察に逮捕された。
フリッツ・ハールマン(ハノーヴァーの吸血鬼)
1919年から1924年にかけて、ハールマンは少なくとも24人を殺害している。ハールマンの犠牲者はハノーファー中央駅をうろついている若い男性浮浪者や男娼だった。ハールマンは彼らを自分のアパートに誘い、男色行為中に犠牲者の喉を噛み破って殺害した。噂ではハールマンが犠牲者の肉を闇市場で缶詰の豚肉として売り歩いたとされているが、これを裏付ける証拠は無い。明らかになっているのは近所の女性がレストランを所有し、彼から肉を買っていたという事だけである。TruTV Crime Library(#外部リンク参照)は犠牲者は24人ではなく27人であると主張している。牧逸馬の著書によると裁判記録にある犠牲者数は28人である。但しハールマン自身は少なくとも48人は殺したと豪語していた。
彼の共犯者で同棲相手でもあったハンス・グランスは慈善団体に犠牲者の服を寄付したり安く売りさばいたりした。(ハールマンは古着商人でもあった。)逮捕後、彼らが保管していた古着全てが押収され、全国の行方不明のティーンエイジャーの家族達は衣類を確認するためにハノーファーに向かわなければならなかった。グランスの着ていた服は犠牲者のものであった。しかしハールマンはグランスがハンサムな少年を殺すように唆しはしたが、それ以外は殺人には関与していないと証言した。
逮捕のきっかけはハールマンがライネ川に廃棄した多数の白骨化遺体が下流に流れ着いた事である。彼の裁判は見せ物のようになり、ドイツにおいて主要なマスコミが大々的に報じた初の大事件の1つだった。当時はまだ「シリアルキラー(連続殺人犯)」という言葉は存在せず、大衆や報道機関はこの事件を表現する言葉を見出せなかった。彼は「狼男」、「吸血鬼」と称されると同時に「性的サイコパス」とも呼ばれていた。しかし明らかにされたハールマンの所業の残虐性とは別に、ドイツ社会を更に揺るがした不面目な事実は、警察の事件に対する関与であった。ハールマンは他の犯罪者をしばしば捜査官に引き渡していた警察の情報提供者だった。ハールマンが逮捕されるまで、警察は探していた連続殺人犯が彼らのよく知る人物で、目と鼻の先にいる事に全く気付かなかった。
ハールマンは1924年12月19日に有罪判決を受け、1925年4月15日早朝にハノーファー地方裁判所の刑務所でギロチンによる斬首刑に処された。グランスは24件の殺人の1つを教唆したとして有罪となり、同様に死刑を宣告されたが、グランスの無実を明言するハールマンの手紙の開示により、2審では12年の禁固刑となった。グランスは刑期を務め上げた後、1975年に亡くなるまでハノーファーのリックリンゲンに住み続けていた。
処刑後ハールマンの頭部は脳の構造を調べるため、科学者により保存された。ハールマンの頭部は現在ゲッティンゲンの医科大学に保管されている。また脳から切り取られた4つの断片がミュンヘンに保存されている。
事件はドイツで死刑、精神疾患のある犯罪者に対する正しいアプローチ、警察の捜査方法、同性愛について多くの議論を引き起した。
ジョン・ヘイグ(ロンドンの吸血鬼)
1949年2月20日、ロンドン市警察をジョン・ヘイグと老婦人が訪れ、同じホテルに宿泊しているオリーブ・デュランド=ディーコン夫人が一昨日から戻ってこないと告げた。老婦人はディーコン夫人と親しい間柄であり、夫人はヘイグが経営する工場に投資するかどうか彼と共に見学に出かけて帰ってこないと訴えた。一方ヘイグは夫人に工場を案内する予定があったことは認めたが、夫人と会えなかったと主張した。ヘイグの言動を勘ぐった警察が調査してみたところ、彼は過去に詐欺や窃盗で3度も服役していたことが判明。警察は直ちにヘイグの工場に捜査に向かった。
サセックス州にあるヘイグの工場とは名ばかりの倉庫で、警察は38口径のピストルと実弾、ガスマスク、ゴム製エプロン、ゴム手袋、ゴム長、特殊なガラス瓶、ドラム缶、女性のバッグや靴などを発見。夫人に投資話を持ちかけていた付け爪の製造などまったく見られなかった。後日、聞き込みでヘイグが夫人の宝石やコートを売り払っていた事実を突き止め、ヘイグに詰問すると、彼は笑顔でこう言った。
「彼女を殺したのは私ですが、夫人を硫酸で跡形もなく溶かしてしまったから殺人事件として立件できませんよ」
完全犯罪を成し遂げたと思い込んだヘイグは、他の女性たちも夫人同様に殺害後、ドラム缶の硫酸風呂で処理したと告白した。
得意満面なヘイグは警察の捜査にかなり協力的であり、犯行の一部始終を話していた。しかし、彼はここでミスを犯している。酸による溶解で完全に人体が消滅するものとばかり思っていた彼は遺留物を発見が困難な下水や海などに流すことなく、ドラム缶を転がして移動させ中の硫酸と遺留物を比較的発見が容易な庭に遺棄していた。
これを自供から知った警察は、倉庫内から庭までドラム缶が転がされた跡を綿密にたどっていき、遺棄した地点を探し出し、その地帯の土壌を徹底的に調べ上げた。すると、硫酸が溶かしきれなかった人間の脂肪、人骨、胆石、入れ歯などがわずかながら発見。人骨、胆石などが夫人の特徴と一致した上、入れ歯が夫人の歯科医により夫人のものであると証明され、ヘイグは逮捕される。つまり遺体は発見された。
公判中もヘイグはわずかな証拠しか発見できなかったことで死刑にはならないと思っていたのか、自ら主張する精神異常を装うためか、「被害者の血を飲んだ」と供述したりクロスワードパズルに熱中したりしていた。
だが陪審員は全員一致で死刑判決を出し、同年8月10日にヘイグはロンドンのワンズワース刑務所でアルバート・ピエレポイントの手により絞首刑となった。